東京・大田区を中心とした城南エリアにホームを構えるプロバスケットボールチーム・アースフレンズ東京Z(中地区6位※3/19現在 以下:東京Z)。大手資本企業の参戦が目立つBリーグのなか、親会社を持たない唯一のベンチャークラブとしても注目を集めている。
東京Zは、選手の新しいポジションへのチャレンジや、試合会場で整体や手相占いなどファンもビックリするようなイベントを行うなど、さまざまな分野で挑戦をし続けている。そんなチームを象徴する輪島射矢選手(41・シューティングガード)の素顔に迫るインタビューを前後編に分けてお届けする。(2019年4月に公開された記事を再編集したものです)
小学3年生、目指す夢に向かって
現在34歳、チーム最年長の輪島選手。怪我などもあり出場機会は少なくなっているが、得意の英会話を活かし、日本人選手と外国人選手をつなぐなどチームにとって欠かせない存在だ。そんな輪島選手がバスケットボール選手を志したのは小学校3年生の時だった。
「当時外国人の子供ってあまりいなかったんですよね。僕、クォーターで日本人離れした顔をしているからいじめられたこともあって、絶対に見返してやる。将来ビッグになって絶対に見返してやるんだと思っていました」。幼少期をそう振り返る輪島。加えて、両親が離婚したこともあった。「母親にプール付きの大きい家に住ませてあげたい」と子供ながらに夢見ていた。「父親とも仲良かったので、父親のためにというのもあります。」ちょうどその頃、たまたまテレビでマイケル・ジョーダンのプレーを見た。小学3年生の時だった。「これだったら有名になってみんなを見返せる。お金持ちになれる」将来は決まった。「バスケットを始めてからプロを目指したんじゃなくて、NBA選手になりたいからバスケを始めましたね」。
けれど当時近くにミニバスのチームなどなかった。そうなると輪島は一から作る計画を立てる。「自分で知り合いの人にバスケットボールチーム作ってください、人は僕が集めるんでって言って作りました。たまたまお願いした友達のお父さんが元日本代表の人で。基本的にないなら作る。ないなら自分でやればいいっていう考えでした」。小学校6年生になって10人ちょっとのメンバーが集まり、ようやくチームができたが時は遅く「2,3ヶ月して卒業でした(笑)」。
地元を飛び出し、強豪校へ
本来なら地元の中学校に進学するところ「将来NBA選手になるためには、今から強いところでプレーしたい」。いろんな先生にお願いして、家から電車で1時間くらいのバスケ部が強い中学校に通っていました」。バスケットを本格的に始めて2ヶ月で、強豪校に進学。「素人ながらになんだかんだ試合には出ていました。練習もきつかったし、バスケしかしてなかったですね」。
一方で「勉強はからっきし」。だからこそ、バスケをする子供たちにちゃんと伝えたいことがある。「僕はプロバスケ選手になってしまったので、勉強して大人になってからどうなるかということは分かりません。ただ、バスケも頭を使うので、新しいことをインプットしてアウトプットするということでは勉強と同じ。例えばコーチから言われたことを頭で理解して表現する、つまりこれは勉強したことを書くことと同じですよね。だから行動としてはインプットとアウトプットの連続なんです。ただ僕は勉強してこなかったのでそれが下手で、今もまだ学んでる最中なんです。バスケットをうまくなりたければ、インプットしてアウトプットする練習、勉強もしたほうがいい。僕は勉強をしていなかったから、難しかったですね」。
厳しいのは当たり前、軍隊のような部活で育つ
高校は推薦で札幌光星高へ進学。「昔の軍隊のよう、とにかく厳しかった」。それでも愛を持って指導をしてくれたコーチのことを嫌いにはならなかった。「自分のことを考えてくれていました。未だにその人のことは大好きで応援もしてくれています。何かあったら連絡もくれます」。当時のポジションはセンター。今のように外からのシュートを打つことはなかった。「個人的にはシュートやドリブルの練習はしていました。将来NBAに行くことを考えたら外のシュートは絶対必要になります。監督はチームを勝たせることが仕事だけど、選手はチームを勝たせることプラス自分のなりたい自分になるための足りない部分を自主練で補うことが仕事だと思うので、そこは自主練で補っていました」。NBAに行くという目標に向かって何が必要か、常に考えながら生活していた。
海外へ飛び出すも、アルバイトに明け暮れる日々
高校卒業後は海外に行こうか考えていた輪島。その時、たまたま教官室である学校のパンフレットに釘付けになる「南イリノイ大学新潟校。先生は全員外国人で、生徒はアメリカに行ってプレーしたい選手ばっかり集まっていたんです。これだ!と思って即行で電話して、即行で資料請求して、入学するって決めました」。生徒はみんな同じ目的のもとで集まっていたため、中途半端なメンバーはいない。普段は英語の勉強をして、バスケに励む生活が始まった。しかし、その学校がなくなるというアクシデントにみまわれ、ついに海外行きを決意。フロリダの大学を見つけて、単身飛び込んだ。「向こうに行ったら入れるとばかり思っていたら、トライアウトがあったんですよ。結局入れなくて。それでも1年目はチームに関わりたくてマネージャーをやりました。毎日洗濯とかアウェーにいった時もビデオを撮ってましたね」。2年目には選手としてチームに合流した。「結構強くて、フロリダでも3位になりましたね」。チームは順調だった。だが輪島は家族の事情があり、急に日本に帰らなくてはならなくなる。
「でもお金がなかったんです。まず日本に帰るお金がなくて飛行場にすら行けなかった。だから自分の持っているポロシャツを友達に売って20ドルもらって、その20ドルを持ってスーパーでバケツとスポンジと洗剤を買って、いろんな家を訪問して洗車させてくれって言いました。5ドルとかでいいからって。日本食レストランでもアルバイトして、お金を必死に稼ぎましたね」。その期間、バスケットにはまったく触れなかった。「生きなきゃ」。4、5カ月かけてなんとか日本に帰ってくることができた。「ないなら作れ」。小学生のときにバスケットボールチームを自分で作ったときと、考えは同じだった。